2011年3月25日

ムーシュのために

ぼくは夏の夜の夢をみた、
月の光の中に蒼白く荒涼と
建物が並んでいた、ルネサンス時代の
華麗な建物のなごりだった、廃墟だった。

ただところどころドーリア風のどっしりとした柱頭をもった
柱が瓦礫の中ににょきにょきたって、
空に走る稲妻をあざけるように
高い天空を見上げていた。

地面には玄関や、彫刻のある破風屋根の
破片があたり一面にちらばっていた、
人間もあれば獣もあり、ケンタウルスやスフィンクス、
サティロスやキマイラ―など伝説時代の異形ども。

それに石の女人たちも
高い草に埋もれてころがっている。
悪性の微毒である「時」が
けだかいニンフの鼻をちょっぴり崩してしまったが。

かと思えば、蓋のない大理石の石棺が
少しも損なわれずに廃墟の中に立っている、
棺の中も少しの傷を受けぬまま
一人の死者が忍従の面持ちで横たわっていた。

頸を伸ばした女身柱が
重そうにその棺を支えている。
両側にはまたたくさんに
浅浮彫の姿が見える。

ここにはオリンポスの壮麗な神々が
しどけない異教の神々とともどもに集い、
そこにはまたアダムとエヴァが二人とも
無花果の葉を前に当てて立っている。

ここにはトロイの滅亡と炎上とが見える、
パーリスとへ―レナがいる、ヘクトルもいる。
モーゼとその兄アーロンもすぐ傍らに立っている、
エステルもいればユーディトもいる、ホロフェルネスもいればハーマンもいる。

同じようにアーモルの神も見えれば
陽の神アポロも、ヴルカヌスもヴェーヌスも、
プルートーもネプトゥーンもディアナもメルクールも、
バッカスの神もプリアポスもシレ―ノスも。

その傍にはバーラムの驢馬が立っていた
ーーーこの驢馬はよく物が言えるのだったーーー
そこにはまたアブラハムの試練が見られ、
娘たちと酔っぱらったロトの姿も見えた。

ここにはまたヘロデスの娘の踊りが見られた、
洗礼者の首は皿の上に載せられている。
地獄もここに見られサタンもいる、
大きな天の鍵を持ったペトロもいる。

好色のユピターの欲心や乱行も
かわるがわるここに彫りだされている、
白鳥となってレダをかどわかし、
金貨の雨となってダナエを誘惑したさまも。

ここにはまたディアナのたけだけしい狩りのさま、
彼女に従うのは裾を短くからげたニンフたち、犬たち、
ここには女の服をまとったヘラクレス、
糸車を廻しつつ腕には糸巻竿を持っている。

その傍らにはシナイの山も見えている。
山にはイスラエルが彼の牡牛らと立っており、
キリストが子供の姿で寺院の中に立ち、
正教徒らと討論しているのも見える。

ここに対立するものがどぎつく並べられている、
ギリシャ人の悦楽とユダヤの神の思想と。
そして唐草模様のように
常春藤の蔦がその二つにからみついている。

だが、不思議なこともあるもの。そうやって
夢のうちにそれらの姿を眺めるあいだに、
とつぜんぼくは気づくのだ、自分自身が
あの大理石の美しい石棺の中にいる死者なのだと。

しかしぼくの臥床の頭のところに夢のような姿の花が一つ咲いていた、
葉は硫黄のような黄色と紫で、
花の中にはしかしはげしい魅力がこもっていた。

民間ではこれは受難の花と呼ばれ
神の子が十字架にかけられ
世界救済の血を流したとき
その髑髏のようなゴルゴダの丘に咲いたと言われる。

この花はまた殉教の花とも言う、
そして殉教者を苦しめる
刑吏の用いる拷問の七つ道具の摸像を
すべてその夢の中に収めていると。

そうだ、受難のすべての道具がここに
見られるだろう、拷問の部屋そっくりが。
たとえば、笞、綱、荊棘の冠、
十字架、萼 釘、それから鉄槌。

そのような花がぼくの墓のほとりに立ち、
ぼくの骸の上にかがみ込み、
悲しむ女のように、ぼくの手にキスした、
途方にくれたように黙ってぼくの額に、ぼくの眼にキスした。

だが夢の魔術よ。不思議なことに、
受難の花、黄色い花は、
女の姿に変わった、
彼女だ、---まがうこともない恋人だった。

花はきみだった、可愛い子よ、
きみのキスでぼくはきみだと悟ったのだ、
花の唇はそんなにやさしくはない、
花の涙はそんなに火のように熱くはない。

ぼくの眼は閉じていた、それにもかかわらず
ぼくの魂は絶えずきみの顔を見つめていた。
きみはぼくを見ていた、幸福そうに惚れぼれと、
そして月の光に照らされて精霊のようだった。

ぼくたちは語らなかった、しかしぼくの心は
きみが黙って心の中で考えていることを聞きとったーーー
語られた言葉は恥知らずだ、
沈黙こそ愛の純潔な花だ。

そしてこの沈黙は何と多くのことを語るか。
何もかも比喩なしに語る、
無花果の葉などかぶせず、抑揚の
技巧も、修辞家の円滑な口調も要らず。

声に出ぬ対話よ。
黙ったままのやさしいおしゃべりのうちに、
悦楽と戦慄とに織りなされた夏の夜の美しい夢の中の
時間は何と信じ難いまでに早く過ぎていくことか。

ぼくらが何を語り合ったか、ああ、けっして問わぬがいい、
草むらに何を光ってみせるのか、蛍にたずねるがいい、
小川の中で何をざわめくか、彼にたずねるがいい、
西風に何を泣くのかたずねるがいい。

たずねるがいい、何を光るのかを、紅玉に。
たずねるがいい、何を匂うのか、「夜のすみれ」や薔薇の花に。
だが月の光の中で受難の花と死んだ愛人とが
何を打とけて語り合ったかたずねたもうな。

どれくらいの時間、ぼくのまどろみの冷たい石の寝床で
美しい歓びの夢をたのしんでいたか、
ぼくは知らない。ああしかし妨げる者もない
ぼくの静かな歓楽はいつしか消えた。

おお死よ。おまえの墓の静寂で、おまえだけが
無上の悦楽を与えることができる。
愚かにも荒々しい生は、幸福の代わりに
激情の痙攣を、絶えまない欲心を与えるだけだ。

だが悲しいかな、幸福は消えてしまった、
戸外でとつぜん起こった騒動に。
どなり散らすやら、地団駄ふむやら、大変な喧嘩。
ああ、ぼくの花はおどろいて逃げてしまった。

そうだ、外ではどえらい喧嘩が始まった、
がやがやわいわいけんけんごうごう。
はてな、何だか声に聞き覚えがあるようだーーー
なんだ、ぼくの石棺の浮彫にあった奴らだ。

むかしの信仰の妄念が石の中に現われるのか。
そして大理石の影法師どもが討論するのか。
あばれ者の森の神パンの恐怖の叫びが
モーゼの呪いと烈しく声を競う。

おお、この争いはいつ果てるとも知れぬ、
いつも真理は美と争い、
いつも人類の群は二つの党派に分かたれる、
野蛮人とギリシャ人とに。

呪いの声、罵りの声、この退屈な、
この論争はきりがなかった、
それにパーラムの驢馬めがいて、
こいつの声には神々や聖者らも何を言っているやらわからなくなる。

この馬鹿な獣めがすすり泣くように、へどの出そうな声で
「イ―ア」「イ―ア」と鳴きまくるのには、ほとほとまいってしまって、しまいには
ぼく自身叫びだしてしまってーーー眼がさめた。



Poem Harry Heine (1797-1856)



詩人ハイネの最後の日々をなぐさめた女性カミーユ・セルダン。
彼女にハイネが与えた愛称<ムーシュ>。
死の数週間前に彼女に書かれた詩である。

10代のころに読んですべてを理解できぬまま書棚に眠っていましたが
地震で書棚の奥からくずれおちてきまして
何十年振りかで読んでみました。
ハイネの詩は恋の歌が多いと思っていましたが
こんなにもギリシャ神話やキリストの受難
そして芸術的な要素などがちりばめられていた詩もあったのですね。
改めて素敵な詩だと思いました。



今宵もよい夢を

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